会うは別れの始め【叔父と父の物語】※衝撃的な内容を含みます
※多少、衝撃的な内容を含みますので苦手な方は気を付けてください。
叔父が亡くなった。
70歳だった。
叔父は親戚中から「のっこ」と呼ばれていて、私もそれに倣い、いつの間にか「のっこおじさん」と呼ぶようになった。
”のっこおじさん”は私の父親の兄である。でも、父と年齢は同じだ。
何故なら、彼らは二卵性の双子としてこの世に生を受けたからだ。
親兄弟から「のっこ」と「つっこ」と呼ばれていて、6人兄弟の下ふたりだった為に何かと構われながら幼少期を過ごしたそうだ。
私にも姉が居るが、恐らく歳の違う兄弟よりももっと近い存在だった事だろう。何せ母親の胎内でまだ「細胞」だった時から一緒に居たわけで、学校への入学も、卒業も、就職先まで同じだというのだからそりゃあ特別な存在に決まっている。
だから私は、のっこおじさんの通夜へ行く道すがら、車を運転しながら色々な事を考えた。
父の心が壊れていないかとか、最初になんて声をかけようか、とか。そんな事を。
なにせ、おじさんは。
孤独死、だったのだ。
繁華街すすきので飲んだくれ、喧嘩して、すすきの交番へ連行され、母の元へ「お宅の旦那さんですね?」という連絡が…という武勇伝は、酔っぱらった父の口からいつも飛び出してくる話だ。今や私もその武勇伝を最初から最後まで語れるほど覚えてしまい、「あ~、だから私も酒グセが悪いのね」なんて納得したりもした。
もちろんこの武勇伝には、のっこおじさんも登場する。
どちらかと言うと父は大人しい方で、のっこおじさんの方がケンカっ早く、この武勇伝もきっとのっこおじさんが始めたケンカに父が巻き込まれただけなのだろう。でも父があまりに喜々としてこの話をするものだから、「聞き飽きたよ」とは言えず、いつも最後まで話をきくハメになるのだった。
私はというと、のっこおじさんと特に親しくしたわけでもないが、次男が生まれた時には抱っこしてもらったし、お祝いももらったし、盆の墓参りには必ず顔を合わせる、そんな関係だった。
でもこの「次男が生まれた時に抱っこしてもらった」は、ものすごく重要な出来事だったんだと、おじさんがいなくなって気付いた。のっこおじさんは独身で、結婚はしなかった。だからもしかしたら、「赤ん坊を抱っこする」なんて事が自分に訪れると思わなくて、この時おじさんはちょっと戸惑っていたかもしれない。
次男をこわごわ抱えて。
でも泣かせないように、大事そうに、あやしてくれたおじさん。
通夜の会場はとても静かで、でも慌ただしかった。
着なれない喪服と履きなれない靴に、私はゆがんだ歩き方をしながら会場に入り、こわごわと中を覗く。そこは想像していたほど悲しみに満ち溢れているわけではなく、どちらかというと諦めみたいな雰囲気が漂っていて、不謹慎かもしれないけれどほっとした。
「…お母さん、遅くなってごめんね」
「…ああ、来たの。仕事早退させて悪いね」
泣き腫らした目をした母を見て、予想以上に父も憔悴しているのではないかと不安になった。母に父の様子を聞こうと思ったのだけれど、それよりも先に父が目の前に現れてしまい、黙る。
父はひとこと、「悪いなぁ、遠くから」と言った。
遠くといったって、車で1時間くらいの距離だ。何かあればすぐに飛んでこれる距離だし、こんな時に娘に対して謝らなくていいのに、…とは思ったものの、何も言葉にならなくて「大丈夫」とだけ答える。
父の様子は少し疲れたようではあったが、取り乱したり泣きわめいたりという事はなくて、そういうものなのか、そうではないのか、私にはわからなかった。
おじさんは亡くなってから3日経って、発見された。
職場に現れないおじさんを心配して、会社の人が大家さんに連絡をとってくれたそうだ。刑事ドラマみたいだ、と思ってしまったのは仕方ない。実際にこんな事が起こるなんて、私は想像もした事がなかった。
炊飯器に、たくさん炊いてあったお米。
飲みかけのコップ。
使ったままの食器。
点いたままのストーブ。
トイレから布団へ続く、痕。
布団の中に居た、おじさん。
亡くなった時にひとりだった場合、その遺体はすぐに戻ってこない。一度警察に連れていかれて、検死が行われる。死因がはっきりして、他殺の可能性がなくなるまでは戻れない。
父の居る実家は、親戚の中ではおじさんの家に一番近い場所だった。だから父はすぐに警察へ行って、その時は顔を見る事が出来たけれど、日数が多く経ってしまっていたので、私はおじさんに最後の対面をする事ができなかった。
通夜の最中、父は淡々としていて、なんだか少し怒っているようにも見えた。
ずっと体調が悪くて入院をすすめられていたおじさんは、「誰かに迷惑をかけるのが嫌だ」と言って入院を拒んだ。だから最後に具合が悪くなった時も、誰にも連絡をしなかったんじゃないか、…というのが父の想像だ。
最初は入院も連絡もしなかったおじさんに怒っているのかと思ったけれど、父はもしかしたら、自分自身に怒っていたのかもしれない。何もできなかった、自分自身に。
薄情かもしれないが、私はこの時泣くほど「悲しい」という感情はなくて、強くあったのは「怖さ」だったような気がする。人が死ぬという事に対する恐怖。生き物はみんな、いずれは旅立たなくてはならない。でも、こんな形で失われていく命が、自分の近くから発生してしまったという事がとても怖かった。
「荼毘に付す時、棺に封棺帯(ふうかんおび)をするので、ひとりずつメッセージを書いてください」と係の人に言われた。親戚が順番に書いていったが、この時おじさんの事をみんなが思い出していたためか、「のっこはああだった、こうだった」という会話が弾んでいた。
私はそれを遠巻きに聞きながら、「みんな今は普通にしているけど、家に帰ってふとした瞬間に、突然泣いたりしてしまうんだろうな」なんて思った。いつだって「現実」は、ひとりで居る時に突然降ってくるものだ。突然思い知るものだ。こちらの都合など、おかまいなしに。
私の隣に居た父は、封棺帯に何を書くか悩んでいるようだった。
でも深刻な顔をしていたわけではなくて、「俺は字が下手だからなー」とか「俺はな、作文が苦手なんだよ」なんて言い訳みたいなことをいいながら首をひねっていた。
子どもの頃父に手紙を書いた事があって、それに対して父は返事をくれたのだけれど、接続詞の「は」を「わ」と書いている時があって、子供ながらに「お父さん…」と思ったものだ。文字というものに興味がなかったと言えばそれまでだが、人間は日常で「書く」事をしないと、書けなくなってしまうんだなぁ、なんて思った。
そんな父がどんなメッセージを書くのか気になったけれど、あんまりじっと見ていたら書きにくいだろうと思って、私は近くに居た姉や母とのっこおじさんについて語ったり、今後の事を話したりした。
「おい、お前の番だぞ」
父に言われて封棺帯を受け取ると、他の親戚のメッセージが目に入る。「今までありがとう」とか「おばあちゃんによろしくね」とか、「何も心配しなくていいよ」とか。優しい言葉であふれていた。
その最後に、とても短いメッセージがあった。
父の気持ちの全てが、そこにはあった。
『のっこ さよなら』
私はこみあげてくるものを飲み込んで、泣かないように歯を食いしばった。
鼻の奥がツンとして、ヤバいと思ったので下をむいた。父に、見られないように。
本当の「さよなら」を、絞り出すように書いた父が可哀想で、いや、可哀想と言ったら語弊があるのだけれど、誰にもなんともしてあげられない痛みを、父は自分で何度もやり過ごしているのだと思うと。
なんだかとても悔しくて悲しくて、切なかった。
一緒に育って、一緒に馬鹿な事をやって、喧嘩して、笑って、怒って、泣いて。
そうやって共に生きてきた命との、別れ。
最後に送るメッセージに、「さよなら」を選んだ父の気持ちは、今の私には考えたってわからないのだろう。
かつて酔っぱらうたびに話した「武勇伝」はほとんど出てくる事がなくなって、父はその代わりのように「俺が死んだあとの話」をするようになった。
とは言っても、しみったれた内容ではない。
恐らくのっこおじさんの死を見つめ、父なりに答えがでたのだろうと思う。
父は繰り返し、私たち姉妹に言うのだ。
「俺が死んでも、悲しまなくていいからな。みんな最後は、同じところに行くんだから」
何故だかわからないけれど、私はほっとしたのだ。普段は言葉の少ない父であるが故に、何を考えているのかわからない事も多いのだが、今回の事だけは違った。
「あの世」を信じているわけではないし、あったとしても同じ場所へ行くかなんて正直わからない。でも父はきっと、「のっこの通った道なら自分にも行けるだろう」と思ったに違いない。
かつてふたりが、この世界へ生まれてきた時のように。