ガリチキが藤川先生の本に出会った時の話

※大した事書いてないんで、暇潰し程度に読んでください。
ガリブロの中では自分の事を「ガリチキ」と呼んでいますが、ここではひとりの母として、「私」という名称を使用します。

「発達障害」という診断

「薬」の恐ろしさ

次男が「発達障害」の診断を受け、薬を飲むかを決めてくださいと病院の先生に言われた時。

私は「薬は嫌だ」と思った。
今思えばそれが全ての始まりだった。

発達障害については割愛する。
あまりにも多種多様というか、一言で説明の出来ない障害であり、個性の範疇と言う人も居るくらいだから、なかなか素人には説明が難しいんだ。

簡単に言えば、次男の場合は

  • じっとするのが苦手
  • 自分の気持ちのコントロールが苦手
  • 短期記憶の能力が低い
  • 人の気持ちを察するのが苦手

こんなとこだろうか。

日常生活を送る分には問題なくても、人間関係でつまずけばいつか、社会から弾かれてしまう。
子供の内に、親がなんとか生きていける術をみつけなくては、という思いから色々な本を読みまくった。ネットの海も泳ぎまくった。

でもほとんどのところで、最終的には「薬」という手段を使うしかない、という書き方をされている。

それでもガリチキは薬を飲ませる事に抵抗があった。
何故なら、「別人のようにおとなしくなる」と実際に使用している子のお母さんに聞いていたからだ。

 

「確かに大人しくはなったけど、自分の子じゃないみたい…」

 

そう言っていたそのお母さんの言葉が頭から離れなかった。

「個性」なのか「障害」なのか

発達障害は個性である、と言っている人も居る。
でもそれを個性として受け止められるかは、本人の問題ではなく、「社会」の問題なのだ。

個性と障害の境目なんて曖昧で、誰にも決める事なんてできやしない。

確かに、周囲の人たちに迷惑をかけるような「障害」を、「個性」として受け止める事は簡単じゃない。
でも、その「障害」を持った人間を薬で大人しくさせ、周囲に無理やり合わせていく事は正しいのだろうか。
息子の「個性」ともつながっている「障害」を、親である私が薬でおさえつける事は正しいのだろうか。
しかも当時まだ6歳の子供で、薬を飲むとしたら一生飲み続けなければならなくなるだろうと分かった上で、それでも薬を使い続けるほど、息子は社会に迷惑をかけているのだろうか、今の段階で?

私はまだ6歳だった次男に薬を使う事は、ただ自分が楽になりたいからだろ、という結論を出した。

自分の思い通りにならならず癇癪を起すパターンが多い発達障害児は、毎日の生活の中でどんどん疲弊してしまう。
本人も、家族も、周囲の人たちも、「いつまた癇癪が始まるんだろう」という恐怖と緊張の中で生きている。

本人も、その衝動を抑えられないのだからなおさら、苦しいのだ。
下手をすると自分自身を物理的に傷つけてしまうし、成長して力が強くなれば尚の事、自分自身も家族も耐え難い日々になっていく。

私は、そんなふうに家族がボロボロになっていくくらいなら、薬を使うべきだと思っている。
ちょうどいい量を探して、本人や家族が苦しまないように、薬でコントロールする事はむしろ、必要不可欠だ。

 

でも。
それでも。
わかっていても。

 

当時の私には、息子の「障害」がまだ「個性」の範疇であるとおもえたし、それを薬で抑え込むことに抵抗があった。

藤川療法との出会い

栄養という可能性

薬に頼らず子どもの多動・学習障害をなくす方法 という本に出会ったのはネットでだったと思う。

これね↓

寝る間も惜しんで発達障害について調べまくっていたので、もうどのタイミングで出会ったかまでは覚えていない。

ただその頃は、
「薬 使わない 発達障害 治す」
のような検索をしていたと思うで、その中のどこかで出会ったんだろう。

私だって正直、この本を読んだ後も「栄養って…」とかなり怪しんでいた。

そんなもん、栄養で治るんだったらなんで医者はそれを教えてくれないの?
もっとメジャーな情報になっててもいいはずだし、発達障害で悩んでいる人たちがもっとたくさん、救われていてもおかしくないはずだろ!変なデマ流しやがって!どうせ金もうけの為に作った本なんだろ!

…と、私の心はかなり薄汚れていました笑

じゃあなんでそれを実践し始めたのかって?

 

他に、薬を使わずに息子を救う方法が見つからなかったからです。

 

薬に頼らず子どもの多動・学習障害をなくす方法 を読みながら気付いた事は、自分自身が次男を妊娠する前から貧血だった事、そもそも体型がガリガリであり、かろうじて妊娠や出産に耐えられただけで重度の栄養不足だった事などだ。

昨今の日本人の食事は、昔と比べてかなり欧米化が進んでいる。
そして、昔に比べて「ちょっと変わってる子」が増えている事も体感としてあった。

世の中の食生活は利便性を追求するせいで、元々自然にあるものを「効率が悪い」という理由で使わなくなったり、昔ながらの方法が淘汰されてしまったりと、見えないところでたくさんの変化が起きている。

そんな中で、失われていくたくさんのものがある、という事。

自分自身の生活を振り返ってみた時に本の内容と合致する部分があまりに多く、私は「まさか本当に……」という気持ちになったのだ。

これは本当かどうか確かめようもない事だが、医者というのはやたら薬を出したがる、と。
それは薬を処方しておけば、その患者は薬がなくなればまた病院に来るからだ、と。

いや、これはかなり極端な話なので「そんな医者も居るかもな」くらいの気持ちで聞いて欲しいのだけれど、私は一理あるな、と思ってしまった。

 

藤川先生は言っている。

「医者は患者を診る時、その患者は栄養で満たされている、という仮定の上で診察をする」と。

 

確かに。それはそうだろう。

つまり、栄養不足による不調が出ていたとしても、それが複合的になればなるほど、病気はみつからないのに体調が悪い、という事が起こり得るのだ。

そして医者は、足りていない栄養に関しては言及しない。
栄養指導をする病院も、中にはあると思うけれど、基本的にはそういった事は病院ではしないのだ。

 

それがどういう事か。

 

私自身、そもそも貧血が治りにくいまま生活していた事、朝起きられなかったり、無駄にだるい日があったり、PMSが酷かったり、それを元々の体質のせいにして、何故そんなふうに不調があるのかという事を考えた事もなかった。

栄養失調だなんて。
毎日好きなものを食べられる時代に?

振り返れば振り返るほど、私は確かに偏った食生活をしていたし、肉より野菜、小腹がすいたら野菜ジュース、朝はヨーグルトとパン…そんな、藤川理論を理解した後なら絶対にしないような食生活をしていたのだ。

 

よかれ、と思って。

 

息子の発達障害が治らなくても、藤川先生の言うように食生活を変える事は、私自身の体を癒してくれるだろうという気持ちがあった。
長年抱えてきた貧血や朝の辛さが改善されるなら、今よりもっと元気に毎日を送れるだろうし、そしたら息子に対してイライラする事も減って、もっとちゃんと向き合えるかもしれない、と。

 

そして、今。
このブログを書いている。

 

次男の経過についてはここでは書きませんが、栄養療法を開始して現在1年半、彼自身の体の成長ももちろん関係あるとは思うけれど、かなり改善しています。

癇癪が本当に減った。

でも、ここまでくる事が簡単だったわけじゃない。
たくさんの迷いや失敗、やめてしまおうかと思った事もあります。

 

だけど今、私は確実に言える。

 

藤川理論に出会えて、良かったって。

 

長々とお読み頂きありがとうございました!(^^♪

こちらもおすすめです↓